子育て

振り返ればいとおしい日々

工学研究科 鳴瀧 彩絵

2014年1月に、2歳と0歳の子供を連れて単身で名古屋大学に赴任しました。その後10年の歳月を経て、2024年4月に東京医科歯科大学へ異動します。単身赴任生活も終わろうとしている今、このネットワークの皆様に心から感謝し、10年の出来事を振り返りたいと思います。

 

1.名古屋大学赴任まで

 

名大工学研究科の准教授のポジションに興味はありますか、という連絡を頂いたのは、私が東大で助教をしていた頃、2人目の子供を妊娠中のときでした。当時、昇任や異動は全く頭にありませんでしたが、この突然の連絡をきっかけに、チャンスを掴みたいという気持ちが沸き起こり、夫に正直に話しました。「別居になってしまうけれど、頑張りたい」と。夫は「やりたいことがあるなら応援する」と言ってくれ、前に進むことになりました。大きなお腹でヒアリングを受け、無事、名大での採用が決まりました。

着任は2013年4月以降のなるべく早い時期が想定されていましたが、その時期が出産予定日だったため、着任時期を9ヵ月遅らせ、2014年1月として頂きました。長男の子育ての経験から、生後9ヵ月であれば赤ちゃんの睡眠に朝晩のリズムができ、育児が少し楽になるタイミングだと思ったからです。名大男女共同参画室経由で、私が着任することが本ネットワークに伝えられ、ネットワークの皆さんから「何でも相談して下さいね」というメールが届きました。メール・電話でやりとりし、保育園情報や、住むのに良い場所などの情報を教えてもらえたことは、土地勘のない私にとって本当に助かりました。さらには、メンバーのひとりが住んでいるマンションに空室が出たため、最終的にそこに住居を決めました。「何かあれば助け合える」という安心感は絶大でした。

 

2.赴任1年目の試練

 

2014年1月、満を持して名大に着任しました。年度途中で兄弟2人が同じ保育園に入ることは、名古屋市の認可保育園では無理でしたが、名大の学内保育園でそれが叶いました。とはいえ、子供達が保育園に慣れるまでの最初の数か月が大変なことは目に見えていたため、秋田に住む母にお願いして3か月ほど名古屋で同居してもらい、家事・育児を助けてもらいました。

母が帰ってからが正念場でした。まず、生命線である食事ですが、買い物は基本的に通販オンリー。生協、Oisix、ネットスーパーをフル活用し、極力買い物に行かずに済ませました。夕食づくりがけっこう大変でした。子供達は、私の姿が見えないと泣いてしまうし、かといって台所に入れるのは危ないので、子供達がまだ保育園にいる17時頃に一旦帰宅し、夕食を作ってから保育園に迎えに行きました。

仕事は子供達が保育園にいる平日9時~17時に集中して終わらせたいところですが、実際には、発熱して保育園に行けない日もあれば、予防接種などの病院通いも多く、なかなか時間を確保できません。子供達は、起きていればずっと母親と遊びたいので、子供達の脇で仕事をするのは不可能です。そうすると、じわじわ溜まるパソコン仕事を、早朝3時4時にゴソゴソ起き出して処理しようとするのですが、子供達は母親が傍にいないことを感じ取って泣き出すので、また寝室にあやしに戻り…と、ろくに眠れない日々でした。そのうち、私自身が蜂窩織炎という病気にかかり、足が腫れて松葉杖生活になりました。この間、いろいろな方に仕事を代わってもらい、夫に名古屋に来る頻度を増やしてもらって、ましな生活を取り戻しました。この1年は私の半生を振り返って最も過酷な1年だったと思います。秋には帯状疱疹にかかり、痛みで泣きそうになりながら科研費の申請書を書きました。

すでにたくさんの方に助けてもらっていたので、これ以上迷惑をかけられないという気持ちがありました。しかし、今振り返ると、もうちょっと交渉できたこともあったなと思います。例えば、毎週1限の講義を、2限以降に組んでもらうなど。これだけで、子供の突発的な発熱に対応する時間稼ぎができ、心理的に余裕ができたはずです。ですが、着任直後の准教授の立場で、何をどこまで交渉していいのかわかりませんでした。ひととおり経験した今なら、さじ加減が分かりますので、今後単身で赴任される方はぜひ相談してもらえると嬉しいです。

 

3.赴任2年目以降 ~出張をどうする?~

 

乳幼児期の子供の成長は早く、昨日できなかったことが今日はできるようになるなど、驚きの連続でした。それに伴い、私も少しずつ仕事時間が確保でき、学会等の出張にもチャンレジしていきました。大きな学会であれば、大抵、託児所の開設があったので、子供2人を連れていろいろな土地に行きました。助かったのは、子供達が人見知りをせず、どこの託児所にもすぐに馴染んでくれたことです。託児2日目にもなると、「僕だよ~!」と言って颯爽と託児所の中に入っていく姿には笑ってしまいました。普段から、このネットワークのイベントや、研究室のパーティ(飲み会)に子供を連れていっていたので、子供達は「知らない人と打ち解ける」ことについて達人でした。一方で、大変だったのは移動です。数日分のオムツやミルク、着替えを持っての大移動。自分ひとりでは難しく、夫や父母に付き添いをお願いしたことも多かったです。また、新幹線の中でテンションが上がって騒いでしまい、見ず知らずの方に「うるさい!!」と怒鳴られるなど肩身の狭い思いもしました。客室乗務員の方が、非常用の個室に案内してくれ、その親切に感謝するとともに、子供達には「うるさくしたから牢屋に入れられちゃったね」と話すと、さすがに反省していました。大雨大風の中、子供達と手をつなぎ、必死に託児所にたどり着いた日もありました。千人を超す参加者のうち、託児利用は自分だけであったときは愕然としました。しかし、託児所があったお蔭で今があるので、少人数のためにでも、未来に向けて託児を設けて下さった学会にはとても感謝しています。

 

4.コロナ渦

 

コロナ渦の2020年4月に、PIとして研究室を持ちました。子供達は小学校2年生、3年生になっていました。名大の学童を利用できたため、いわゆる「小1の壁」はありませんでしたが、コロナ渦では苦戦しました。小学校が休校になり、自宅学習用に配布された山のような学習プリントに子供と一緒に取り組みつつ、気分転換に外に出かけ、しかし外食はできないので1日3食を自宅で準備して、一日が終わっていきます。しかし、そのうちコロナ渦がもたらした生活様式の変化は、我々単身子育て者には歓迎できるものだったと思います。出張しなくても国際会議で発表できる、自宅からでもオンライン会議に参加できる。夫の会社でもリモートワークが導入されたため、名古屋で家族一緒に過ごせる時間が格段に増えました。

 

以上、走り続けた濃厚な10年でした。現在、小学校高学年になった子供達は、ひとりで習い事に行くし、休日は外で友達と何時間も遊んでいます。研究室のパーティに誘うと相変わらず「行きたい!」と言い、大学院生にサッカーやゲームの話を聞いてもらいご満悦です。私は、はじめは、サポートされる側として、最後の3年は、ライフイベント発生中の研究者を支援する運営側に回りました。少しでも恩返しができたのであれば幸甚です。最後に、2021年に他界した母に心からの謝辞を送りたいと思います。厳しい母でしたが、料理がとても上手で、私に難局を乗り切る気力、体力を与えてくれました。孫たちには本当に優しいおばあちゃんでした。ありがとう。