1 セミナー講演記録
2 セミナーアンケート結果
NEXT
1 セミナー講演記録(1)

(金井)それでは、女子学生エンカレッジセミナーの方を始めさせていただきたいと思います。本日、司会をさせていただきます名古屋大学男女共同参画室の金井でございます。よろしくお願いいたします。(*拍手)

(金井)どうもありがとうございます。お手元のチラシをご覧ください。主催のところに名古屋大学男女共同参画推進専門委員会、名古屋大学男女共同参画室とあります。男女共同参画室は、大学ではこういった機構、室という形では日本で一つしかないと思うのですが、この二つが名古屋大学の中で男女共同参画という視点で活動させていただいております。本日は日本女性科学者の会東海支部の皆様と共催ということで、女子学生エンカレッジセミナーを開催させていただくことになりました。いやエンカレッジされなくても、いつもエンカレッジしてますという人もいっぱいいると思いますが、私たちとしては大学でも男女に関わらず活躍していただきたいと思っておりまして、今日は日本女性科学者の会の東海支部の皆様、それからご講演いただく武井先生においでいただいて、先輩の研究者としてどのように活動されてこられたかということをいろいろ教えていただこうという企画です。皆さん、たくさんお集まりいただいてありがとうございます。男女関わらず、それから文理関わらずということで、皆さんにおいで願っております。チラシの最後の方にはお茶とお菓子も用意しますと書いてあります。この部屋は飲食禁止ということですので、隣の部屋にお茶とお菓子を準備しました。この予定でいきますと3時過ぎ、ちょうどおやつの時間になりますが、お茶をしながら親しく懇談をさせていただければと思っています。
 ではさっそくですが、信州大学工学部の元教授でいらっしゃいます武井たつ子先生に今日はおいでいただいております。武井たつ子先生、どうぞお上がりください。(*拍手)

(金井)武井先生のご案内ですけれども、このチラシの裏をご覧いただきますと、武井先生のご紹介があります。これを私が読み上げていてはお時間ももったいないですので、読んでいただければと思います。それでは武井先生、よろしくお願いいたします。


(武井)みなさん、こんにちは。私が今、ご紹介いただきました武井でございます。学生のみなさん、ちょっと手を挙げてみて、どのくらいおられるんですか。ほう、なかなかいいじゃないですか。ありがとうございました。元気が出ます。今日は今、金井先生からご紹介ありましたように、そういう企画でやられるということで、その企画関係の皆様にご推薦いただきまして、今日お話しできる栄位を得たことを私としてまず感謝申し上げます。ありがとうございます。本当に申し上げたいことを先に申し上げて、あとは時間の許す限り、いろいろなお話ができたらと思います。やはり今までの世の中というのは、女性と男性というような形で、世の中が形成されてきた都合上、いろいろな点で問題点があろうかと思うんですけど、名古屋大学ではさっきお話にありましたように、日本でもトップを走っている、男女の共同参画、そういうものを推進しようという、そういう意気にかかった、つまりそれを受入れられやすい、そういう土地なんだなと、いい土地だなと思います。ですので、希望される方々は伸び伸びと行動していただけるんじゃないかなと思います。

 私なんかが勤めた頃は、女性で、見た目そうですし、本当に女性だったので、結婚するなら退職しろ、そういわれた時代なんです。ですから仕事に生きたいと思うと悩むわけですよね。まずそこの段階で。結婚した方がいいのか、それとも何か自分のやりたいことをした方がいいのかとか、そういうことがあるし、それが自分の、何ていうんですか、一生に関わりがあるもんですから、なかなか決めにくいところがあるわけです。たとえば私の場合をお話ししますと、私は家庭環境がまずよかったと思うんです。つまり父が割合にこう、理科系の素質を持ってたんじゃないかと思うんですね。それでいろいろな話をしてくださったし、同時にちょうど育った頃は第二次世界大戦のさなかが小学生の時代でしたので、まず東京にいたんですけれど、そこでもって、もののない時期を経験しまして、今まで、たとえば石けんがあったとか、電気があった、それがなくてロウソクを使わなければならないとか、いろいろ生活に支障がでるくらい、ものがない時代になりました。うちの父はそういうときに、まず石けんも作ってくれたんですね。どうやって知識を得たか知らないけれど、ちゃんとぐつぐつ何か煮てて、そのうちに何ができたのかと思ったら、家族が必要としてて手に入らなかった、そういう石けんを作ってくれた。それから灯りがなければ不自由ですね。夜やなんかだって、食べ物を作る、食べるったって、何食べてんだか分かんなくなっちゃうし、それから足下も悪いですよね。それをロウソクを作って、家族に提供してくれたんですね。こういうことを小さいながら見ていて、ああ私たちにこういうふうにやってくださるということは、とても幸せを感じさせてくれるっていうふうにね、心の中で思った。つまり行動が人を豊かにする、人に幸せをもたらすっていうことは素晴らしいな、具体的にいえば、今のものづくりですね、必要なものを、生活に必要なものを作る、そして提供してくれる、それがどんなにありがたく嬉しかったかということが基本にあります。

 それから、そのあとはみんな、集団疎開というのが、東京ですからありまして、それぞれが疎開地に学校で連れていったんですけど、親族に田舎とか何かある人はそちらでもいいですよっていうことで、私は栃木の方へ、親戚へ預けられることになりました、1人でね。1人で行ったんですけど、東京と違う田舎の生活に触れたということね、つまり自然に触れたということです。今まで、ただ食べ物がそこにあって食べていたっていうことから、自然でこの植物が育っていく過程、そういうのを見てて、えー、こんなに素晴らしいんだと思いましたね。動物もいたしね。たとえば馬がいて、馬小屋があってね、そういう動物がいて、飼ってたというようなこととか。今の農作物ですれば、たとえば落花生ね、あれ、落花生、根に付くんですよね。なんかヒョウタンみたいな格好したのは地上にこういうふうにぶら下がってできるのかなと思ってたら、何と根っこだったんですね。根を掘ってといいますか、植物を抜いてみると根が出ますよね。そこんところにざらざらとくっついているわけです。えー、こんなに下に付いてるのもあるんだとかね、サツマイモを見たときに、まぁサツマイモはツルの先にできるって話は聞いてはいたんですけど、サツマイモの根を伏せるっていうかね、サツマイモを切って、土の中にこう植え込むんじゃなくて、ちゃんと床を作って、サツマイモ一本から芽を出させるわけです。こう芽を出させてね、それを切って、簡単にいえば枝みたいなものね、ツルを切って、それを土の中へ埋めておくと、そこから根が張ってきて、そこにサツマイモができる。そしてツルが伸びてった先にまた地面に根っこができてできてくると、サツマイモが根っこの中にできるとかね、同じ根っこのものでもジャガイモになるとまた違うんですよね。ジャガイモはみんな料理するときに、ちょっと置くと芽が出たりなんかして、その芽は体に悪いから取って食べなきゃいけないとかいうんですけど、その芽を上手に残して切ってね、そして切り口を腐らないように灰を付けて、火を燃した灰ね、灰を付けて、そして土の中に埋めるんですよね。そしておくと、今度はそこから芽が出たり根が出たりして、土の中でできるんですよね、ジャガイモというゴロゴロした、ね。そういうふうに土の中でできるものでも、やはり植え方も違えばでき方も違うし、それは驚異でしたよ、びっくりでしたよ。えー、こんなんなってんのーとかね。そういう自然に触れたっていうことが非常に、私にとっては、また科学の目を養ってくれたんじゃないかと思うんですね。

 それからやがて戦争が終わりまして、終わったはいいんですけど、我が家もほかのお宅と同じように、でも誰も欠けることなくみんな生きていることができたんですけど、でも家は全部燃えちゃったですね。だからそれで何もない。結局、両親が長野の出でしたので、長野へ行こうってわけで、戦後になってから長野へ帰ってきたわけです。昔は地主だったんですけど、小作に出してたので、戦後、農地解放、改革がありまして、みんな小作の方に提供されるようになったわけです。従って帰ってきても、作物を作って家族を養うような、そんな肥えた田畑はなかったんです。ですから開墾したわけね。木を切って根を取って、そして土を耕して、そこへ植えてね、種をまいて、そしてマメを作るとか、そこの場所っていうのは、そういうふうに木があったところですから、あんまり土自身はあんまり日が当たってないし、それからザラザラしたような水はけのいいというか、鹿沼土ってのありますけど、あれに似てますけど、あれとまた違う、そういうような、あまり農作物に適さないようなところではあったんですけど、とにかく家族が大勢ですから、そこを耕してね、植えたわけです。

 何を植えたかっていうと、そういうふうに育ちそうもないような畑ですね、でも育ってくれるものは何かって、多分考えたんだと、あとで私は思うわけですけど、みんなだったら何植える?私はその時よく分かんなかったんだけど、家の人は大豆を選んだんです、大豆。
 大豆を植えて、そしてその実りを待ってということをやりました。あとで学校でもって先生が、農業も教えてくれたんです、当時の学校は、小学校ですけど、教えてくれて、大豆の根っこ、豆科の植物っていうのは根粒バクテリアっていうのが根っこにあって、それが空気中の窒素を吸収して、ちょうど肥料を作ってくれるような形だから、外から肥料をやらなくても自分で肥料を作って、それで自分で生活していく、そういう能力があるんだって話聞いたときね、ああさすがと思ったね、さすがと思った。何もないんだから、肥料なんて。それで当時は肥やし、肥えですね、つまり人間の排泄物、そういういうものを田畑にまいたわけですけども、それを持って行くには、そういう山ですから、なかなか持っていくのは大変ですよね。人力ですから、みんなこうやって桶に入れてかついでいくわけですから、なかなかそんなんできないところだったんですね。ですから従って、そういう大豆のような自分でたくましく生きられるものね、そういうものを作ったりなんかしていたわけです。そういうふうな生活がありまして、まぁ科学というか自然界へ向ける目っていうのが育ったと思うんですね。

 高校へ行きたかったんですけども、今のように食べるものさえ容易じゃない、住む家だって間借りですよね、親戚がありますから、親戚の家の一部、座敷を借りて生活させていただいたんですけど、とにかく住むところって自分のうちでもないし、食べるものっていっても、そういうふうに十分でないようなところで、私は高校へ行けるなんて、行こうなんて、とても言えなかったですね。言えなかった。なので行きたいけど両親にはもちろん言えないし、その素振りも出さなかったんですけど、そこで私がついた先生がよかったっていうか、担任の先生ですね、今でも感謝してんですけど、担任の先生がちょうど私、まだ学校に授業で行っているときに家庭訪問してくれてね、是非、高等学校へ出したらどうでしょうっていうふうな話してくれたわけ。そしてお金は日本育英会の奨学金をね、という制度があるから、それを借りて、そして行ったらどうでしょうって、お金の話までちゃんと持って来てくれて、説得してくれたらしいんです。

 そして両親は、やはり教育には関心があり熱心だった、自分の子を育てながら、こういうことは言ってましたね。手に職を持つということは大事なんだよっていうこと、いつも言ってましたね。つまり教育によってそういうものを養いたいと思ってたんでしょうね。それで、学校へ出させていただける雰囲気になりまして、それで学校へ出れた、高等学校へ出れたということで、つまり私とすれば、自然の不思議さに気付いたり、父のそういう行動を見ていたり、いろいろしているときに、なんでとかね、どうしてこんなに違うのとかね、なんかいろいろなことが頭の中に右往左往したと思うんです。先生の中にもいいお話をしてくれる先生がいっぱいいたんですよ。さっきの担任の先生が、来てくださった、その先生はそういうふうにして忙しいのに、家までみえてね、家族にそういう話をしてくれて、しかも展望の開けるようなおみやげまでもってね、おみやげっていうのは奨学金を借りていけるんだよっていうね、そういうおみやげまで持って来てくださったわけです。

 いい先生と言えば、科学的なお話だと、こういう先生もいらっしゃった。虫歯の話してね、ご飯食べたあとは、昔は歯磨きとかなんかより、塩でゆすぐとかね、磨くとか、そういうようなことをしたわけですけど、とにかくご飯食べたあとは漬け物を食べてね、お湯を飲んで歯をきれいにするとまず虫歯にならないよっていうような話から始まって、虫歯を治療したときに金属を被せるけど、その金属が歯の中、口の中に入ると、歯と金属とは違うから、どうしても、いい歯の方もまた痛めるような形になっちゃうんだよっていうこと。そんな話を聞いて、私としても、なんでそんなふうに違うものが来ると、影響があるのかなーというふうに、分かんなかったけど、頭の中にずーっと残ってたんですね。これは高等学校に行ったときに、イオン化傾向とかなんかいうこと、習いますね、ああ、これなんかなーとかね、同じものがずーっとあったときと違うものとが同居したときでは、もうその強弱関係ができてね、自然にそういう方向になるっていう性質があるというね、それ、イオン化傾向という、そういうことを学習してなるほどなとかね、ですから先生方がいろいろとこう話してくださる、それはなんでなんでというのが、いつもこう残っていた、それが学校へ行けることによっていろんな知識を得て、そして自分なりに理解できるようになって、ああそうなんだっていうような、そういうふうな生き方を私はすることができたわけです。

 そういうわけで高等学校へも入れて勉強できるようになった私にすれば、とっても学校へ行けることが楽しいし嬉しいし、いろんな知識をもらえるところが嬉しかったですね。大学にも継続して行くことができて、もちろん奨学金いただいているんですけど、そこでもって私はそういう自然界への目が育まれていたので、科学の道に進みたいと思ったですね。科学と数学、両方どちらかにしようと思ったんですけど、数学っていうのはひらめきが天才的であることも要求されるだろうということもあったし、それから形に表しにくいこともあるし、それから科学の場合でしたら形に表すことができる、さっきのロウソクとかね、石けんとかのように形に表せて、すぐ目に見えるというような状態で、自分のやってることが自分でもああ納得っていうふうになりやすいし、人にも早く分かって、喜んでもらえる傾向があるんじゃないかっていうようなことで、科学の道を進んだわけですね。それで一方、頭の中には先生って、いい先生があまりにも大勢いらしたので、あこがれたんですね。先生になりたいってことを、教育者になりたいって。ですから大学を卒業するときは教育者であって科学の道が進めればいいなーと思ったの。大学を選んだのは大学が一番それに合ってるんじゃないかなーというふうにして、大学の先生になりたかったんですね。ところがちょうど大学出た頃は、なんていうんですか、就職難の頃だったので、それでいいところがなかったんです。でも高等学校の化学の先生というところへ就職できたので、まぁよかったということですね。

 そこにいたとき1年目は、担任じゃなくて副任という形だったんですけど、次の年は担任になれたのね。そうすると担任というのは3年間もって、持ち上げて卒業させる、そういう制度だったの、そこの学校は。従って自分の受け持った担任の生徒達が卒業するときに、自分もこの学校を卒業しようと思ったの。なぜというと自分の大志、大きい志ね、自分はこういうふうに生きたいと思っていた、だけどそのときは高校の先生の口しかなかった。それも一つの方法ではあるけれどね、でもそういう大志を忘れられなかったね。だから卒業する生徒を送りながら、自分もそこ、卒業しようと思ったの。で、運よくそのときに大学の方に就職する口があったんですね、先生もご協力くださって、そういうところがあったんです。大学の先生がご協力してくださったんですけど。

 そのつもりでいたら、3月の30日かね、31日かね、30日ぐらいかもしれないね。とにかく電報が来たわけです。それは中学校の先生になってほしいという電報なんですね。それでえーっと思ってね、いやー私はちょうどもう4年間、高校の先生っていうのも楽しくみなさんとできたんですよ。自分のありったけのものを注いでやってきました。でも自分の大志っていうのも、ならば貫きたいと思ったっていうことですね。たまたま大学に行けるチャンスができたので、あ、これはよかったと思ってる矢先に中学の先生にっていう電報が来たわけです。それは私としては困りますので、といって断れば、電話ででも断ればよかったのかもしれないけど、私にはそれはできなかったんです。その学校へ行って校長先生にこういうわけで、せっかくそういうふうにいただいたけど、ご希望に沿えなくてすいませんという、そういうふうにご挨拶しようと思って、翌日すぐ出かけたわけですね。

 そして校長先生にお会いしたら、校長先生は、はぁ先生のおっしゃることはよく分かりました。これから職員会があるので、そこへいってください、そこで先生の気持ちをお伝え下さい、そういうお話でした。私も、ああ、そうかそうか、それはなるほどそういうもんだろうなーと思ってね、校長先生1人だけじゃなくて職員の先生方も理解していただかなきゃいけないっていうふうに思ったんですね。促されるままに職員室へ行った、入ったんですね。そしたらみなさん、ちゃんと席についていらして、私が来るのを待ち受けていただいたわけです。先生はこちらの席へどうぞっていって案内された席に座ったんですよね。座って、机の上を見たらば、なんと時間割があるんですよ、時間割。それで時間割見たら武井っていう字がすぐ目に入ってきたわけですよね。そりゃそうですよね。3月の終わりですからね。で、ああ、これはもうどうすればいいかと思ったね。そりゃもう、やっぱり判断しなけりゃ、決断しなければいけない段階だと思ったね。もう自分も教育者の一端を担ってきてる者として、これだけきちんと企画された中にいる自分というもの、これを蹴ることはできない、即断ですよね。それで結局そのままいることになったんですけど、まぁ一応、席に座って時間割をみて、そういうふうに思いながら、ちょっと左の目をずらして横を見たら、田舎の学校ですから、当時は職員室の横に小使い室みたいなところがあって、日本間があったんですね。そこにね、ごちそうがちゃんと並んでるんですよ。つまり私の歓迎会の用意もしてあったんですよね。いや、もう、これはもうどうしようもないっていうふうに思いましたよね。

 というわけで、そこでやることにしました。つまり中学校の先生をやりました。とても環境のいいところで、そして子どもたちも素直で、本当にいい人たちでした。ここもやはり自分なりに一生懸命やって別れがたい思いがあったんですが、1年目はあれですね、2年生の副任だったんですね。4クラスありまして、ですから4クラスの副任だったわけです。2年生ですから次3年生になりますね。と、また卒業の時期を迎えました。それでそのときもやはり考えました。このときは高等学校の先生を辞める前のときと違って、そのときは先ほど申し上げましたように、次、大学の先生になれるっていうチャンスがあったわけでしょ。だけど今回はもうそういうものがないんですよね。ないから、もっと厳しい、自分としてどう生きるかっていうことね。うーん。それで、どう選んだかっていうと、やっぱりこのまま先生を、中学の先生やっていってしまうと、自分の大志というのがね、どうなるのかしらっていうことでね、いや、もういけないっていうふうにしてね、それで自分を肥やすために勉強した方がいいだろうっていうふうに、勉強しようと。それで退職することにしたんですね。退職しました。そしたら校長先生が、その中学校の校長先生が、長野の山の中の我が家を訪ねてくれてね、いやー先生に是非、もう一度学校を続けてやってもらうようにできないかっていうお話をしてくださいましてね、それ3度ぐらい見えたかね。それで結局、最後はうちの父が、うちの子は体が弱いから少し療養させてやりたいのでということだった、まぁ丈夫なのにね、親ってありがたいもんですよね。そういうふうに言って、それで最終的には断ってくれたわけですね。

 とはいっても、私自身が先があって辞めたわけじゃない。しかも先に申し上げたように私のうちは貧乏ですから、ですから私の給料っていうのが頼りになるわけですよね。その私が辞めるということに対して親は一言も反対しなかったですね。しかもその校長先生が何度か見えても、私の立場になって、うちの子は体が弱いとかいってね、それにはまた私は感謝しちゃいましたね。我が親はなんという素晴らしい親かと。でも心の中ではいろいろな思いがあったですよ。迷惑かけちゃいけないというかね。いい年齢になってみんなが自分で働いて、自分の生活するばかりでなくて、家庭にお金を注いでね、というか、今までのお礼を少しでもお返しできればいいと思ってやってんのに、私は仕事を続けてほしいといって何度もみえたお世話になった校長先生にも断ってね、しかもルンペン、ルンペンっていう言葉ですね、あったんですよ、昔はね。そういう生活をする、それを親はなんとも、じっと堪えていわないでいるっていう、その場所に自分がいるっていうことが非常に、自分が大変な気持ちになったですね。そういう気持ちで何日か過ごしました。

 それで当時はメディアといいますか、ラジオしかなかったのね、テレビはなかったですね。貧乏だからじゃなくて、その頃はまだテレビっていうもの自身がなかった頃で、ラジオはうちは聞いていましたから。ある時、ラジオの中から信州大学工学部の研究生を募集するというのが来たんですよね。いやー、これはね、本当に勉強したいと思っていたんですから、従って、これはチャンスだと思いましたね。それで願書を妹に、悪いけど取りに、もらいにいってと頼んで、妹がいったんですよ。そしたら妹が帰ってきました。そして、姉ちゃんね、願書もいいけど、勤めないかっていう話なんだけど、どうする?って話でね、今度は向こうからやってきたんですよね。あんなに私が求めて求めてきたけど、世の中がそういうふうに回ってこない、だけど向こうからチャンスがやってきた、わー、これはありがたいと思ったね。何がいいか分かんない、やっぱり求めるものを忘れてはいけない、自分のやりたいことができるチャンスというのもあるということですね、それで結局、勤めることができて、私は水を得た魚です。これこそ頑張っちゃおうと思ってね。おかげさまで信州大学工学部の先生になれました。最初ですから、助手だったんですね、でも本当に嬉しくて一生懸命にやりましたね。女性第1号ですから、男子の学校ですから、先生で、助手であろうとなんであろうと、先生で来たのは1号目ですね。で、やがてそれが助教授1号目、教授1号目と上っていくわけですけど、その中でもやはりいろいろな問題ありましたね。

 たとえばさっきも、結婚するなら辞めろということを、もう現実に言われた、適齢期の頃ですね。言われましたよね。やっぱり大志は忘れることができないし、面白い、もう、仕事やってると面白い、のめりこんじゃいます。何でもそうですけど、10年頑張ってみたらどうですか、自分のやりたいと思うこと、もしかしたら合わないかもしれないという可能性含めてですね、10年やってみる。一生懸命やるんですよ、一生懸命っていい字ですよ、命を懸けるんですよね。今でもだから私、時々なんかあって頑張らなきゃいけないと思うときに、一生懸命やらないように、命を懸けちゃいけない、死んじゃうもの、元も子もなくなっちゃう。この年になると、もう少し生きて何かできることで活用させてもらわなきゃいけないって気持ちが強くなりますから、そうだ、命懸けちゃいけない、今までも十分懸けたんだからというふうに思うように、退職後はできるだけ思うようになりましたけど、まだそれでも一生懸命やっちゃって、そういうわけで命を懸けるんですよね。命を懸ける。話がちょっと余談になりますけど、今年のオリンピックのマラソンで、あれ、野口さんという人だったですね、ゴールに入る少し前に、もうここまで来たら命を懸けるしかないっていうかね、命はどうなってもいいっていうかね、やるしかないっていう、この言葉を終わったあとインタビューで言われたとき、ああ本物だと思いましたね。やっぱりそういうふうにとことん自分を懸けないと大成しにくいんじゃないかと思うんですね。懸けた人には懸けた人なりの、やっぱり報いといいいますか、ご褒美ですね、そういうものがあると思うんです。いろいろなご褒美のあり方がありますけど、そういうふに、やっぱり充実感、満たされた気持ちね、やった喜びですね、そういうものがあると思うんですね。

 そういうことで充実するような日々でした。そりゃあ、中に入ればいろいろありますよね。たとえば退職、私の付いた先生が定年で退職するときにね、これもまた大変だったんですよ。大学ですからピラミッド型になって教授、助教授、助手っていうふうなピラミッド型になって、教授が辞める、そうすると部下は路頭に迷うというようなことになるわけですね、で、たまたま私のついた先生っていうのは、名古屋のここですよね、名古屋の工業試験場から見えた方が教授になったという異例の教授だったんです、当時としてはね。たいていはピラミッド型で下から上へ上ってっていくんですけど、新設された科だったもんですから、工業化学科っていうね、新設されたところだったもんですから、従って、そういう工業試験場という違う分野からの先生を迎えることができたと思うんですね。そういうところですから、ピラミッドじゃないんです、助手の私もピラミッドじゃないわけですね、その先生が育てたものではないわけでしょ?学生からこう上がってって、育てた形じゃない、そういう意味で大学としては異例の組織ではあったわけです。だから一層のこと、その教授の先生が退職されるときに私は路頭に迷うことになるわけです、学校の中でね。

 つまりどういうふうにされたかっていうと、今までその教授がいたからこそ実験する道具とかなんか自由に使わせてもらえたわけです。研究できたわけです。ところがその先生がいなくなる、そうすると管轄が変わるわけですね。だから自由に研究ができない状態になっちゃうわけです。ということを言われたりなんかしたときは、まぁショックだったですね。それで私はどういうふうに行動したかというと、私はとにかく大志があるわけですから、夢があるわけですから、人生をこういうふうにしたいと思う、目標があるわけですから、ここでせっかく軌道に乗ったのに、そういうことはできない。もちろんその退職する先生が何年に退職するってことが分かるから、いろんな条件を揃えました。たとえば大学だと論文はどのくらいとかね、それから社会的にどうとか、そういうものをほかの男の先生方よりたくさん揃えました。だけどそういう目になるわけですね。一応その先生の退職を焦点にして全部揃えました。本当に。だから仕事も、オーバーにいえば男性の3倍ぐらいやりました。だけどそういう目に遭うわけですよ。だから私はどういうふうにするか考えましたね、とにかく研究だけでもさせてもらわなきゃいけないでしょ?当然そのときは助手ですよ。なかなかそんな助教授とかなんか上げてもらうチャンスないもんね。まだ助手でいられるってことは大変ありがたいことだったんですよ、その時代ね。

 それで休暇を1日もらいまして、信州大学の場合は本部が松本にありましたので、その本部へ行ってね、本部の人にお話、実はこういうわけで研究ができないような状態になっちゃった、なっちゃったっていうかね、現実になっちゃった、だけどそれでは私とすれば、生きる甲斐がないというかね、困るということで事情をちゃんと話したんですね。そしたら分かってくれてね、当然それはそうだということで、本部の方から工学部の方へ、そういうようなやり方しないで、やっぱり道具は使う人があってこそ道具の意味がある、価値があるわけだからそういうふうに移管しないで、本当に使える人が管理できるようにしてくださいというふうにしてやってくださったんですよね。工学部の方は私が休暇を取って、くさって寝てるだろうぐらいに思ったかもしれないけど、私は次のステップをすでにそこに踏んでるわけですよね。それはやっぱり目的がちゃんとしてるからです。それが生き甲斐だからです。そういうわけで今まで通りに道具を借りる、借りるというか自分が管理して、つまり鍵ですよね、鍵がなくなったんですよ、自分でその鍵を開けて使える、そういうことがなくなった状態を、鍵を私が持てるようになって、そこで生活できる、これはものすごいことでしょ?つまり私がだめになるか、つまり退職に追いやられるかどうかっていうようなもんですよね、はっきりいえば。そこを私が自分で切り開いたということですね。

 ということで、いろいろと苦労しましたけど、でも最後は教授になってね、それで皆さんが、皆さんがっていうことは、信州大学工学部の先生の中にはいろいろな先生がいて、支持してくださる人もいれば支持してくれない人もいる、それは世の中ですから当然ですよね。それはそうなんですよ、だけど自分の信念を貫くためには、やはりできるだけ自分を分かってもらうような行動が必要ですね。実践が必要です。口だけではダメ。だから私への評価としては、みなさんは言ったことをやるからすごいねーと、こうおっしゃいますよね。そこですよね、言っただけじゃダメ、説得力がない、やってみせる、やってみせて言う、言える資格が出るというかね、その言った言葉が人々の心に響いてくということなんですね。そういうことで最後は皆さんに支えられて、女性第1号の教授としてめでたく終わったわけですね。これがまぁ人生です。

 まだ少し時間があるから、もうちょっと付け加えさせていただきますと、私、アメリカへ留学したんですが、この留学ももちろんついた教授が定年になる前に留学して、実績を残そうということで、それがうまい具合にみんな、そういうふうに回っていたわけですね。回っていったっていっても今、皆さんにお話しているように、自分で切り開いていっているわけですね。だけどそれを自分が切り開いたっていうのじゃなくて、皆さんが協力して、その方向に動いてくれたっていうことなんですね。だから私は決して偉ぶっていないです。本当、協力してくださる方があったから、できたわけですから、そのように協力者を是非作るということです。作ることは実践ですね、やってみせるということ、力をちゃんと見せるということです。ないのにできないじゃないの、ね。一番苦労するのは自分ですよね。ないのに、いろいろするということはね。でも能力っていうのは、この言葉は是非皆さんにあげたいと思うけど、能力っていうのは最初からあるわけじゃないの。作っていく間に能力って生まれてくるの。これ、本当にもう素晴らしい言葉ですよ。

 この間、日本女性科学者の会でもって偉い先生が、その専門のお話されたときに、遺伝子の話をなさいました。で、その遺伝子の話をなさったときに、ヒトの遺伝子の差っていうのは100分の1、1000分の1ぐらいだって、つまり天才と凡人の差は100分の1、1000分の1の遺伝子の影響しかないっていうんですよ。つまりそーんな微々たるものですから、あとは本人の気持ちなんですね。気持ち、気を入れてやるってこと。一生懸命やってみるということね、自分がこうだと思ういい道をやりたいと思ったときはやってみる、自分が心を入れてやるってこと。学校の成績やなんかできないときも、いやー親がそんなに大したことがないからとかね、自分もそんなに大したことないの当然だみたいなね、それは間違い。遺伝的にはそういうわけで自分の意志で自分の能力開拓できるということを、遺伝学をやってる方でも言ってるわけです、暗に。その方はさっきお話したように100分の1か1000分の1の差しかないという、ごくわずかしかないよって話だけなんですけど、それを聞いた私にすれば、そうなの、やっぱり能力っていうのは自分が作るものなのね、自分が作るもの、努力するもの、そういうことなんですね。これはもう、うんと励みになりますよね。ほーんとに励みになります。そうです。是非いろんな経験をして、それを自分の能力にして、どんと来いと、こう構えてね、突き進んで、10年頑張ってください。10年。その道できっと大成すると思います。自分でやりたいことが本当に、ああと思いますよね。できるようになったとかね、実感として分かってくるようになると思いますから、是非そういうふうに頑張ってほしいと思います。

 さっきちょっと途中までお話がいったんですけど、とにかく自分がいろいろと行動を起こすということが、相手を、人々を自分の中に引き込めるというか、理解してもらえるというか、能力を活かすチャンスを恵んでくださるというかね、そういうふうになってくるという、そういう気持ち、本当に私はそう思ってるんですよ。それで武井学術振興会っていうのを実はもう21年目になりますけど、作りまして、行動を起こしてたわけです、在職中にね、これはどうしてかっていうと、さっき日本育成会の奨学金をいただいて高校へも出ることができたし、大学も出ることができたし、というわけで、私自身、現在こうやって皆さんとお会いできるような状態になってるということですね。やはり日本育英会の奨学金がなければ、こういうことはなかったわけですので、感謝の気持ちを込めて、今度は皆さんに私の奨学金で活躍していただけるような人材を作りたいと、つまり人のため世のためになれるような、そういう人材の育成をしたい、自分からこう、お手伝いしたいということですね。そういうふうにして奨学生制度を作ったわけです。で、日本育英会の奨学金の場合は貸していただいてるわけですけど、私のやっている奨学金は差し上げています、授業料をね。高校生に授業料を差し上げています。年間に6人ずついます。2つの学校でやってます。中学で先生方から優秀な方をご推薦していただいて、その方に奨学金を差し上げて、素晴らしい奨学生が生まれてます。何年か先が本当に楽しみなんですね。昨年が20周年記念だったんです。教育者の皆さんもお呼びして参加していただいて、盛大にできたんですけど、それをやるのはみんな奨学生たちが、司会やったりね、お膳立てしたりして、全部やってくださって、その出席された長野県の主だった教育者の方が、いやー先生、将来が本当に明るく見えました、いい子を育ててますねっていうふうにおっしゃっていただいたときは、私もああよかったなーと思ってね、そう思いました。

 今年は21年なので何か21年目に変わったことを加えていこうっていうことで、私がお世話になったその、地域、つまり東京から両親たちを含めて、私も合流して来たこの長野地区ですね、芋井というとこなんですけど、その人たちにお世話になったので、なんかいい方法でお返しできないかというふうに考えていたところ、実はそれはもう前から考えてたんですけど、いわゆる私のうちが開墾でもってね、なかなか作物ができないのを一生懸命できるように努力してた頃は、うらやましいような田畑だったのが、もう作る人がいなくて、つまり若い人たちが町へ出ちゃってね、そんな山やなんかでもって小さい田圃や畑をやるには稼ぎがないというか生活ができにくいというかね、みんな町にあこがれて出ちゃうので、じいさんばあさんになっちゃった。ところがじいさんばあさんも一生懸命やったんだけど、もう年で、とっても山坂を上り下りして、それで田畑をやるっていうのは大変だということですね。そういうことであけた田圃、畑、草だらけの田圃、畑っていうのが多く見れるようになったんですね。これをなんとかしなきゃいけない。農業やってくださる人がいれば、それで助かるわけですが、何しろ現実の足腰の、重い、そういう老人たちが、なんかやるには、なんかいい方法ないかしらってことで、考えて、それで大学を定年退官してから農学部の方へ、そういう目標をもって、週に1回通ったんですね。学生の研究の技術指導しながら、週に1回通ったんですね。

 いろんなお話を聞いたりなんかして、あ、これだって気が付いたというか、思ったのがダチョウだったんです、ダチョウ。それは食料になるということと、動物ですからかわいらしいね、どうしてるか見に行こうとか餌やらなきゃとかなんとか、立ちにくい腰も立てて歩いて、その可愛さにというか、餌やらなきゃかわいそうっていうような気持ちでもって動くかもしれない、体にいいかもしれないね、そういうようなことも込めて選んだわけです。ダチョウ牧場を作ったわけですね。今年の7月に、ダチョウを生後3か月のを買って、10羽ほどね、行動を起こしました。決意したのは去年です。ですから1年で立ち上げちゃいましたけどね、もちろん1人ではできにくいので、昨年の同級会がその地区であったんですけど、その同級生に声かけたんです、あたしはこういうことをしたい、誰か協力していただける人はいないかしらってね、そしたらいたんですよねー、よくしたもんで、本当に助かりましたね。地元の人で、その牧場見に行ったり、いろいろ世話をやってくださるので、本当に助かってますが、そういうふうにして立ち上げまして、最初来たときは膝ぐらいの大きさだったんです、生後3か月ね、マレーシアの方から来てます。それが今になると、もう私の背を超しますよね。だからチョンチョンなんて頭の毛、こういうふうにやられちゃいますけど(笑)。でもね、餌を手でやったりなんかするから人になれてますし、かわいらしいですよ。

 それで、これからが楽しみなんですね。肉は牛のように狂牛病とかいう病気を持たないそうです。動物自身がね。ですからその肉を生でも安心して食べれるということを言ってますし、実際私も食べてはみましたけど、ちょっと火を通すと固くなりやすいですけどね。牛肉よりもコレステロールが少ないので、そういう意味でも体にいいといって、これからの健康食品のひとつじゃないかなーということが私のキーポイントとしてありますね。だから農地っていうのは食料、食べ物に関係するところで、それを活かした食べ物としてダチョウという動物に変えたということです。今お話ししたようなよさを私は買って立ち上げたわけです。これから是非、その地域産業としてね、振興していくように、あれ、皮もオーストリッチとかいって高級じゃないの、それで今、その皮の縫製やなんかできる人いないかなーと思って探しています。みなさんもできたらご協力いただきたいと思うんですが、一昨日もあるところで、こういう講演をしたんですけど、そのときもね、是非縫える人、縫製できる人、協力してねーと言いましたね。やがてそういうこともできると思うんです。皮も使いたい、羽もできたら使いたい、何でもダチョウ様が粗末にならないような方向に事業を拡充していきたいなーって今、思ってるわけです。こういうわけです。なんか私の研究の話なんか全然どっちかいっちゃって、生き方をお話しして、多分この方が面白かったんじゃないかなと、皆さんの顔を見て思いましたので、そのようにさせていただきました。どうもありがとうございました。(*拍手)


(金井)武井先生、本当にどうもありがとうございます。今回お招きするということで、武井先生の素晴らしさについてはいろいろうかがってはいたんですが、改めて直接お話を伺って、今さまざまに活動されていらっしゃるというのは素晴らしいなと思います。工学部の第1号の教授でいらっしゃって、そのプロセスはやっぱり大変でいらっしゃったんですけれども、やはりその自分の能力を伸ばしていきたいっていうすごい大きな志をお持ちになられて、それが先生を支えてこられたのかなーって思って、非常に感銘を深く伺いました。本当にどうもありがとうございました。もう一つ、能力は伸ばすものだというお話は非常に私は感ずるところがありまして、私も今ここにいらっしゃる学生さんの倍ぐらい生きてるんですけれども、でも日々やっぱり学ぶことが多いなーっていうか、いろんなフィールドを与えられて自分が成長している、確かに昨日とは違う自分がいるっていう感じを持つことが多くて、皆さんも、今求めていらっしゃることは、まだ大分先にあるかもしれないけれども、そういったフィールドをセットしていくことによって変わっていく自分というのを是非実感していただきたいなーというふうに思いました。ありがとうございました。


UP