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1 セミナー講演記録(2)

(金井)今、信州大学の第1号の教授の先生というお話だったんですが、次にご登場いただきます諏訪先生は、新制名古屋大学の第1期女子学生でいらっしゃるということでございます。それで第1期の女子学生のみなさんが、こういった新制名古屋大学第1期女性、女子学生の記録という本を出されておられまして、その中の一部を資料としてお配りさせていただいております。それでは諏訪先生、よろしくお願いいたします。(*拍手)


(諏訪)ただ今ご紹介いただきました諏訪でございます。本日は名古屋大学の男女共同参画室と日本女性科学者の会の東海支部が初めての共催でこのような会を開くことができて、大変嬉しく思っております。日本女性科学者の会東海支部というのを、ちょっと簡単にご紹介いたしますと、会員数は四十数名のほんの小さな支部です。会員の居住範囲が愛知から遠く新潟まで広く中部地方全般に広がっているために、会員が集まって何かをやろうというようなことが実際上、不可能です。それでせめてもの交流のために、年1回講演会を開き講演してくださった先生に原稿を書いていただいて、それを中心にニューズレターを発行するというのを、私と今そこにおられます鳥飼さん、それから増井さんの3人が大体中心になって、ここほんの2、3年ですけど、やり始めております。今日は受付のところにニューズレターを、今年の9月に出しました最近のニューズレターを少し持ってきておりますので、もしご興味がおありになりましたらお持ち下さいませ。武井先生には東海支部で前から講演をしていただきたいと思っていたのですが、なかなか実現できなかったのです。今回、こういう共催という形で、お話をしていただくことができて、本当によかったと思って大変喜んでおります。今日はどうもありがとうございました。

 今回のセミナーは、これから、研究者とか、いろんな専門の仕事を目指してらっしゃる若い人たちが進路を考える上で、先輩として何かヒントになるようなことを提言できればというようなことで、企画された会だと思います。私は、今、金井先生がご紹介くださいましたように、新制の第1回の卒業生です。昭和28年の3月に卒業しました。女子学生は、理学部と文学部と法学部で全部で12名でした。平成11年、今から5年ほど前に卒業以来、本当に半世紀ぶりに初めてその12名のうちの8名が集まりました。卒業してからもう50年もたってしまったということで、もう残りの人生もそう多くはないということを実感しました。でも私たちの経験したことは、貴重なことだったのではないかというような意見もありまして、当時の記録を残しておきたいという願望で、先ほどご紹介くださった本ができあがったのです。その中で、ほんの短い文ですけど、コピーをしていただいて、皆様のお手元にお配りしています。それは見て頂ければ、大体お分かりになると思いますので、そこはほとんど話さないで、今日はもっとどろどろした話をしようかと思っております。

 私たちが卒業した頃は、本当に不況のどん底の時代で、しかも私は地球科学という新設の学科を卒業したために、就職口は当然まったくなかったわけです。男子学生は3人いました。その3人は公務員、高校教師、それから鉱山会社というふうにそれぞれ就職いたしました。私は初めは教職の単位を取っていたのですけど、そのうち、あ、くだらないと思って、教職単位を放棄したものですから、教員資格もなくて、行くところがなくて、もう大学院に進むぐらいしか、本当に選択の余地がなかったわけですね。

 しかも大変無謀にも、私は大学院の在学中に結婚して子供を出産したわけです。将来のあてもなんにもないのに、本当に無謀だったかなという気はいたしますけど、でも考えようによっては早く子供を作ったために、あとが楽だったという気もしないでもないのですけど、とにかくそういう無謀なことをいたしました。ところが当時は保育所なんて全くないわけですね。しかも両親は東京におりましたので、たちまち育児という問題がのしかかってきまして、とりあえず学生ですから育児休暇なんて考える必要はありません。こっちが大学を休学しますと宣言すれば、もうあとはもう全く問題なかったわけですから、1年間休学いたしました。夫が低収入の助手をおりましたので、なかなか暮らすのも大変でした。収入はわずかな奨学金と、あとは安月給の助手の給料だけでした.当時は保育所もなく、親も近くにいなかったので、育児は本当に大変でした。多少両親が援助してくれまして、お手伝いさんを探してたんですね。まだその時代、お手伝いさんを探すのは大変だったんですけど、全然ないということはなかったんです。いろいろ探して、来てくれる人が見つかりました。その人は中学を出てすぐうちに来て、定時制高校に通学しました。私は夕方大学から帰って彼女とバトンタッチをするという形で研究生活を始めました。ところが私もあんまり体が丈夫ではなかったので、ちょっと無理をしたりして、たちまち体がおかしくなって、結核療養所、今はもうそういうものはありませんけども、まだその時代は結核療養所が名古屋の周辺に何カ所かありまして、その一つに半年入院させられました。

 それで、休学を何回か繰り返しながら8年ぐらい大学院に在籍しました。大学院のテーマは鉱物中のホウ素の同位体組成を測定するというものでしたが、当時の質量分析計の装置が非常にお粗末で、真空度が上がらないとか、ガスが漏れるとか、トラブルがいっぱいで、データが出ませんでした。途中でテーマが変わりしまして、ドクターを得るところまで行きませんでした。さぁどうしようかなと思っていましたら、研究室の小穴先生から、工学部の応用化学の無機工業化学の野田稲吉先生の講座の助手のポストがあるが、どうかと言われました。私は無機工業化学についてほとんど何も知らなかったのですが、研究ができて、しかも月給がもらえそうだということで、とにかくお金がほしかったものですから、はい、お願いしますと先生にお願いして、昭和37年4月に助手に採用されました。その当時はちょうど四日市に石油コンビナートができて、石油化学工業が花形の時代だったわけですね。応用化学、合成化学の学生もほとんどが有機化学系の講座に進むわけです。野田先生の講座は、当時は日の当たらないセラミックスの分野で、大学院に残る学生というのはほとんどなくて、それで、幸運にも私のような異分子の女子学生でも就職のチャンスがあったんですね、セラミックスの講座ですから、今までやってきた地球科学とはまったく性格が異なっていて、まず電気炉を自分で作るところからスタートしたわけです。

 当時の野田研究室は、人工雲母やザクロ石の合成と物性、黒鉛の合成と物性などが主なテーマでした。私の職務上の一番の義務というのは当時、日本にたった3台しかなかったアメリカ製の粉末X線回折計の維持管理でした。この装置は東大と名大と阪大にありました。野田先生が戦後、アメリカペンシルバニア州立大学に留学されて、この素晴らしい装置を知って、是非日本にもこれを輸入したいということで、非常に尽力されまして、名古屋大学に入ったのです。当時としては本当に革命的な装置だったんですね。それが名大の全学共同利用のノレルコ粉末X線回折装置でした。工学部、理学部、農学部、医学部、それから日本陶器などの教官、学生、技術者の方たちがほとんど毎日使用していました。そのために使用時間割を作って、ほとんどもう毎日稼働しているという装置の維持管理をやらされたわけです。全くX線回折に関する知識も、装置に関する知識もないままに、この物質同定の最新の装置のまっただ中に放り出されたわけですから、とにかくいろんなことを覚えるのに、必死でした。故障いたしますと、英語のマニュアルと首っ引きで配線図を辿って、工業高校出の若い技官と2人で本当に必死になって直したんですね。今の装置だと電気系統はブラックボックスになっていまして、操作板1枚すっと抜いて新しいのに取り替えると、それで動けば、あ、これで直りましたというふうになると思うんですけど、とにかく半世紀前のアメリカの装置ですから、とにかく真空管や抵抗や、コンデンサーがびっしり詰まった配線された、そういう装置でした。

 さて自分の個人的なことはどうだったかといいますと、先ほど申しましたように保育所は全くありませんでした。最初のお手伝いさんも定時制高校を卒業したら、もういなくなるわけですね。その後、2、3年は必死になって短期のお手伝いさんを探すのに苦労しました。そのうちにちょうど鹿児島のそのまた先の離島の方から中学を卒業した人が、知人の紹介でうちに来てくれまして、その人は10年ぐらいうちにいてくれたんです。とてもいい子で、私の娘が小学校の低学年だったのですが、妹のようにかわいがってくれました。夜間の洋裁学校とか料理学校とか通っておりましたけど、昼間はもうほとんど私は家事は、その人に任せっきりで、とにかく食事の献立までやってもらうというぐらい本当にお世話になりました。その人がいなかったら、とても仕事は続けられなかったと思うぐらい、有能なお手伝いさんがいてくれたことが、とってもありがたかったと思っております。

 野田先生は工学部長をしておられましたが、定年を前に三重大学学長に選ばれまして退官されました。野田先生は世界で最初に雲母の合成と結晶成長に成功された研究者で学士院賞を受賞されました。人工結晶の合成では非常に先駆的な仕事をされた方で、人工結晶研究施設を作られました。私はそこに助手で横滑りで移ったわけです。人工結晶研究施設ではSol-Gel法と言われる有機金属化合物を出発原料とする高純度・超微粒子の酸化物結晶の合成法を中心に仕事をしました。工学部では、男性の研究者は、院生、もしくは、助手とか講師ぐらいになると、ヨーロッパとかアメリカに留学して、帰国後はすぐとはいわなくとも、いずれ昇進をしていくのが通例になっています。

 ところが私のように女性で、しかも万年助手というような人間には、まったくそういうチャンスはありませんでした。常に海外留学からは置き去りにされておりました。それで悔しい思いをしていたところに、私の開発した、新しい物質の合成法が、私に無断で特許出願されるという私にとっては非常に衝撃的なことがありしまして、ここから出たいということを強く意識し始めたのです。ところが日本の国内で他に移りたいと思っても、行くところもありませんでした。それで外国へ出ることを考え始めました。しかし、個人的に、私は一人っ子だったので父が脳卒中でがんを併発し、母が心臓がだいぶ弱ってきているとかいうようなこともありまして、とても両親を置いて外国へ出るということはできませんでした。やっと外国へ出るチャンスが廻ってきたのは、まぁそういっては悪いんですが、両親が亡くなって、その直後に娘が結婚したあとでした。やっと初めて私はそういう、呪縛から解放されたという気になりました。もうあとはただただ出たいということに絞って行動をはじめました。野田先生もかつて留学されたペンシルバニア州立大学(ペンステート)の材料研究所の所長のR.ロイ教授に材料研究所に留学したいという手紙を送りました。幸い研究員に採用するという許可をもらいまして留学いたしました.この研究所はスプートニックショックで創設された無機材料の研究所で、セラミックス材料研究では全米のトップに入る立派な研究所です。それで私がペンステートに行ったのは1984年1月、私が54才の時です。アメリカでは私が何歳であろうとか、結婚してるか、してないかとか、そういうことは一切、全然関係ないという感じで接してくれまして、とても充実した楽しい研究生活を送ることができました。そこの材料研究所の生活の一端をちょっと申しますと、夕方5時になると全員一斉に帰っちゃうんですね。そして7時か8時ごろにまた出てきて研究を続けて11時とか12時まで仕事をして帰宅するという、そういう研究スタイルを続けました。金曜や土曜日とかになりますと、夜に日本人のポスドクや会社から来ている留学生の人から、飲みに来ませんかと電話がかかってきます。友人のところへ行ったり、あるいは私のところに呼んだりして、アメリカと日本の研究スタイルや様々の文化の違いなどのおしゃべりを楽しんで時を過しました。そういう人たちの中には、今とてもいい仕事をして大学教授であると同時にベンチャー企業も興しているというような人もおられて、日本のいろんな分野で活躍している方がいっぱいおられます。

 ところがやっぱり残念なことには、日本人の理系の女子の留学生とか女性の研究者っていうのは本当にいなかったんですね。アメリカでいろんな会議に出ても、日本人の女性は本当にほとんどいませんでした.最近は頼もしい後輩が少しずつ増えて来て嬉しく思っています.もっともっと日本も若い女性がどんどん積極的にこういうサイエンスの分野でも留学してほしいと思います。そうするとまたきっと新しい道がそこから開けてくるだろうと私は確信しています。そういう方がどんどん増えてほしいと思っています。

 帰国後は大学を辞職しました。ちょうどセラミックスの原料会社の社長の方が、学会活動を通じてよく存じあげてる方なんですが、うちの会社に是非来てほしいといわれまして、そこに新しく設立されたSTKセラミックス研究所へ就職いたしました。そこでは電子材料やバイオセラミックス材料の研究開発を進めました。偶然なことにその研究所の所長がなんと野田先生の初期の教え子の斎藤肇先生(名大名誉教授)だったのです。そういうことがありまして、野田先生の因縁は私にとっては大変深いものがあるなーというのを感じておりました。骨に関係の深いバイオセラミックス材料の研究開発を行なっておりましたので、医学、歯学、薬学、食品、いろんな分野の研究者の人たちと共同研究したり、海外出張をしたりして交流を深めることができました。さっきの武井先生のお話ではありませんが、このSYKセラミックス研究所の十年間の研究生活は私にはとても楽しい、生き甲斐のある仕事ができたと思っています。こういう色々の分野の人たちと交流ができたというのも、やっぱりアメリカでの研究生活を送ったということが私のどこか底流にあったからではないかなというふうに思います。

 あまり時間がありませんが、私のささやかな研究生活では、人と人とのつながりが、さっき武井先生もいってらっしゃいましたけど、とても大事だと思うんですね。個人的な家族の支えとか、信頼できる先生とか沢山の友人にも励まされたこともたくさんありました。アメリカから帰って来て失職しそうになった時、友人達は心配して就職先や非常勤講師の職を探してくれました。そういうものが私の仕事をしていく上でとてもありがたく、大事だったと今、改めて思っております。以上、簡単ですけど終わります。(*拍手)


(金井)先ほどの武井先生の時も思ったんですけど、諏訪先生の時もとんでもないということが起こっていて、でもそれを乗り越えて来られてるというのが素晴らしいなと思いました。それでは次のご発表を増井先生にお願いしたいと思います。どうぞ増井先生。増井先生のご紹介につきましては、やはりチラシの方にありますし、またお話もあるかと思います。増井先生、よろしくお願いいたします。


(増井)ただ今ご紹介いただきました増井でございます。話が少々飛躍し前後してお聞き苦しいかと思いますが宜しくお願いいたします。私は大学卒業後、広島大学に勤務しました。留学期間を含めて10年になりますが、この10年間が非常に楽しく、もっとも輝いていたように思います。また、この間の経験、キャリアがその後の私の人生を支えてくれました。そのうえ、本日は若い皆さまとご一緒してお話しできる幸運に恵まれました。私の青春時代に焦点をあてお話してみたいと思います。

 私は薬科大学を卒業しました(1957)。私立です。中高校も女の子の学校でお嬢さん学校、大学も女性ばかり。両親は女性らしくと願ったかもしれませんが、遺伝子の影響は大きくて、典型的なお嬢さんにはなれませんでした。先に、武井先生は環境や人の努力の重要性を強調されました。私も同感ですが、遺伝子も無視できません。大学に入学後、薬学の講義も始まりますが、どの講義も面白くないのです。楽しいことが見つからない、授業はどれも駄目、こんなはずではなかったのですがね。進路を誤ったなーと迷い始めました。大学1、2年生のこの当時は、自分が分からず自分探しの同道めぐり、再出発をした方がいいかなとも思いました。そのような中で生化学に出会ったのです。生命現象を分子で切り込むというそのアプローチが気に入りました。これだ!という感じですね。中高校から大学教養の頃、人の精神性とか心に関心が高く、関連した小説や雑誌をよく読んだものです。その結果、益々深みにはまるという青春時代の嵐のなかで、ついに自己発見できました。将来は生化学研究をと思うようになり、生化学会や他大学での特別講演を聴きに行くようになりました。

 さて、目標は明確になりましたが、就職難の時代です。そのうえ女性ですし、通用しにくい。東京では生活できそうもなく大卒後、故郷の広島へ帰り、広島大学医学部生化学教室へ推薦していただきました。生化学であれば研究テーマはなんでもよい、文句はいいません、研究室に所属したい一心でした。生化学教室のことも知らず、なんの準備もせず、広島大学に飛び込む結果になりました。教授の数野太郎先生と初対面、優れた指導者との出会いとなりました。驚いたことに教授は薬学系、助手の1名は女性研究者で、共立薬大の10年先輩だったのです。面接では私の希望、考え方を率直に述べました。即ち1生化学が好きであること。2研究したいこと。3研究能力があるかどうか分からないので、資質がなければやめたいこと。4経済的には不安はないこと。5研究のお手伝いから始めたいことでした。自分らしさがこの一瞬に凝集されていて、懐かしくもあり苦笑しますが、これぞ青春です。

 数野教室はWieland(独)―清水(岡山大)―数野(広島大)へと継承された伝統ある胆汁酸の研究室でした。コーヒータイムには大先輩方の業績や逸話がでて歴史を感じたものです。好きな研究とコーヒー、そのうえ知的なお話が聞けるのですよ。感激しました。ただ当時のことですから研究室はひどいものです。設備はなく、夏は汗だく、石畳の実験室は冬、底冷えです。それでも研究には夢があり、夢を描くことができました。

 さて、胆汁酸について少しご説明しましょう。脂肪の消化に必要な消化液を胆汁といい、胆汁の主成分が胆汁酸です。水に溶けないコレステロールを水溶性の胆汁酸に変換し、胆汁として排泄するのです。胆汁は脊椎動物の成分で、進化の過程で生合成に特徴がみられます。戦前、清水門下によってこの新分野が開拓され(清水先生は日本学士院賞受賞)、この研究に触発された研究者、Bergstrom博士(ノーベル賞受賞者1982、スウェーデン)やHaslewood博士(英)らが、第2次世界大戦後の胆汁酸研究のリード役でした。Wieland博士は胆汁酸の構造決定でノーベル化学賞を受賞された生化学者(1927)です。清水先生はWieland博士の門下生、数野先生は清水門下で研究を支えられた方ということもあって、コーヒーブレークにはWieland先生まで話がさかのぼるのです。先生はEtwasNeues?(何か新しいことは)と話しかけられるのが常だったそうですが、とっても懐かしいEtwasNeues?です。また、昭和天皇が清水教室(岡山大学)をご見学されたことを知り、清水一門の偉大さを実感し始めた次第です。

 翌年、数野先生はKarolinskaInstitute(KI)のBergstrom研究室で、胆汁酸の研究をされ帰国されました(1958-59)。KIは世界最高レベルの研究者と設備を備えた医科大学です。数野教室もスウェーデン流に一変しました。毎日、KIやスウェーデンのお話ですから、広島にいてスウェーデン通になってしまいました。私の研究テーマも未知胆汁酸の構造決定、放射性コレステロールや胆汁サンプルを使った生合成研究へと変化し、研究に没頭するようになりました。研究室の全員が一丸となって燃えたのです。

 研究成果はすべて英文報告でした(J.Biochem.)。お蔭でHaslewood教授(英)から学位取得の希望があれば英国へと暖かいお誘いをいただきました。やがて学位論文もできあがった1963年、Staple博士(ペンシルベニア大学医学部生化学)から共同研究者の申し込みがあり、私が推薦され渡米することになりました(1963-65)。清水の舞台から飛び降りる決心でした。この時も準備なしの旅、アメリカ生活、さすがに不安でした。恵まれた研究環境のなか、研究に夢中でした。胆汁酸生合成の中間体を決定し、J.Biol.Chem.に発表したことは、大きな喜びでした。2年間のアメリカ生活が自信となり、研究者として世界どこでも活躍できると思うようになりました。

 帰国の途中、KIで研究することになりました(1965-66)。KIの研究室は本当にクリーンで優雅、やさしいBergstrom教授、そしてSamuelsson博士(ノーベル賞受賞者、1982)からはプロスタグランジン(PG)研究へ誘われました。胆汁酸研究者であった博士は、PG研究のグループリーダーとして活躍中、秀才とはいえ研究者の幸運について考えるようになりました。ノーベル賞レベルの研究に発展しそうな予感を誰もが持っていた頃です。攻撃的で猪突猛進型の私がPG研究への参加をお断りし、防衛的で安全な道を選択しているのです。このとき以来、研究テーマの継続性、選択について考えるようになりました。KIでの生活は滑稽なことが多く、失敗だらけでした。

 初期のPG研究についてご説明しましょう。精液中の成分PGは、平滑筋、特に子宮筋を収縮するlipids(脂質)として発見され、女性の生殖に関連した物質と考えられていました。KIグループによってPGの化学構造が決定され、不可欠脂肪酸であるアラキドン酸から生合成されることが明らかにされ、アラキドン酸カスケードの幕開けとなりました。その後、Samuelsson博士によってトロンボキサン(血小板凝集・血栓因子)、ロイコトルエン(喘息誘発因子)が発見されています。

 さて、広島大学に復帰し、学位取得、講師となり、翌年退職しました。10年ひと区切りとした自分の決定でした。広島大学を去った後、新設の愛知県立短大の教授に就任、看護教育の高等化、高学歴化に努めてまいりました。短大勤務を知ったかつての同僚は「ステロイド研へ推薦しましょう」とか、Staple博士からは「アメリカ市民権を取得できるようにするので、渡米しませんか」と暖かいご支援を頂きましたが、その時は病床にあり、厳しい研究活動は無理でした。過労が原因の発病だったのです。自己管理ができていませんでした。シングルにも問題点があります。帰宅しても研究室の延長で気分転換し難く、食生活も簡略化してしまいます。子供がいれば、子供のために頑張り(?)、結果的に自分の健康管理をしているでしょうから、既婚者をうらやましく思うことがあります。健康であってこそ研究活動が可能だと云いたいのです。

 最後に、研究活動を通して判ったことですが、ダイヤモンドの原石は自分の周辺にゴロゴロころがっているということです。勇気をだして原石に挑戦していただきたいと思います。夢は大きく、志は高く、夢を実現してください。(*拍手)


(金井)本当に豊かな研究環境の中で先生がわくわくしながら過ごされたんだなというのを感じます。先輩からお話を伺ったところなんですけども、今度は先ほど増井先生のお話からいうと、たくましくなった30代ということで、伊藤先生と山本先生からお話をいただきたいと思います。まず最初は多元数理科学研究科講師の伊藤由佳里先生です。よろしくお願いします。


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